ついに娘が習い事を始めた。
「初日」が苦手な娘は、やると決めてもいざとなると尻込みして「やっぱり行かない」と言い出すのが通例だ。
今日はスイミング初日。大好きな兄も一緒であり、兄のお友達もいる。決して一人ではないのに、それでも娘は直前になって案の定「行かない!」と言い出した。待て待て、初日から辞めるのだけは勘弁してくれよと、パンツとインナー姿でソファから動かない娘を夫が無理やり車に乗せた。一度脱出し玄関まで逃げるも再び夫につかまり大泣き状態で車に乗せられた。さながら誘拐現場である。娘の泣き声に向かいのおじいちゃんが出てくる始末。通報の危機を乗り越えなんとか車を出発させた。
「とりあえずお洋服を着て」そう言うと、反抗せずに服を着始めた。「だいち優しくしてね~」と、ふざけるそぶりまで見せた。楽しみと不安で揺れ動く娘の心が丸見えだった。
この調子なら大丈夫か。私はハンドルを握りながら安堵した。
スイミングに到着し、カードをかざして入館チェックを済ませる。ピッ。「かっこいい~!」とにかく娘のテンションを上げるのだ。このまま、プールサイドまで行ければ、私の勝ちである。できることは何でもする。とにかく、とにかくこのまま娘の表情を曇らせることなく、プールサイドまで連れて行ってください神様仏様!!
そう心で祈りながら、娘の手をとって更衣室に向かった。
そして更衣室に足を踏み入れた時、聞こえたきた「着替えない」。晴れた空に突如光る雷、そしてみるみる雨雲が押し寄せた。
娘は地面に倒れこみ、ひたすらに着替えを拒否した。
なんとか機嫌を損ねることなく娘を乗り気にさせようと、私は思いつく限りの甘やかし案を提示した。
①今着替えれば、プールのあとゲームし放題!
②プール終わったら、きらきらの靴とシールを買いに行こう!
③ゲームだけじゃなく、YouTubeも見放題!
④プールやらなかったら、誕生日プレゼントもらえないかもよ…
最後の案はできれば出したくなかったが、どうにも動かない娘を前につい口走ってしまった。
それまで前進と後退を繰り返しながらも、少しづつ右に傾きつつあった娘のやる気バロメーターは、その言葉をきっかけに急速に左へと傾き始めた。
しまった!やってもーた!!言わなきゃよかった公文式ー!!!!
すると携帯が鳴り、「どう?そろそろ名前呼ばれるよ」という夫の催促にますます慌てだす私の心。
髪を搔きむしりたくなる衝動に駆られるも、どうにか冷静に伝える。しかし投げやりだった。
「じゃぁそろそろ頑張って行こうか」
その言葉に娘のやる気バロメーターは完全にオフになった。
もうこうなったら力ずくでやるしかない。寝転がる娘と娘の両足をつかむ母。私たち以外誰もいない更衣室は突如としてプロレスリングへと化し、般若の仮面を被った初老対新人の戦いが始まった。
初老の腕をするりと抜けて下半身露出状態の新人はリングサイドに逃げた。そして鋭い目つきでこう言うのだ。
「絶対に着替えないから」と。
その表情を前に、あっけなく私の燃える闘志は鎮火した。もう、勝手にしてくれ。母はもう知らんのだ。
母のあきらめの顔を確認するなり娘はパンツを履き、ズボンを履いた。
若干5歳の娘に「もう勝手にして」と言って私は更衣室を後にした。後ろから泣きも怒りもしない娘が走って来る音が聞こえたが、振り向くことなく夫のもとへ向かい、「私には無理です」と言ってスイミングを出た。
車に乗って、ダッシュボードに置いてある小説を手に取った。
『ぼくは勉強ができない』理想とする母親の姿がそこにあるが、今の私はそれとはほど遠い。イライラする気持ちを抑えるには、小説を読んで別次元に行くのがいい。SNSを開くよりよっぽど得るものがある。数行読めば、自然と心も落ち着いてくる。
10分ほどして夫からLINEが来た。
「めっちゃ笑顔」という文字と共に、にっこにこの顔でプールに浮かぶ娘の動画が送られてきた。
ため息が出た。「今からいく」そう返信して本を閉じた。
観覧席に行くと、夫がここだよと手を振った。
「ハッピーセット、ゲーム、色々出したけど、コーチが着替えさせてくれて一発だった」夫は笑いながら言うと、下で楽しそうにレッスンを受ける娘に手を振った。私が試合放棄した後、夫も苦戦した。大泣きする娘に手を焼く夫に女性コーチが「私が着替えさせていいですか?」と助けてくれた。嫌だ嫌だと大泣きしながらコーチに更衣室に連れて行かれた娘は数分後、にっこにこのビッグスマイルで出てきたそうだ。コーチよ、お主何者なんだい?
私と夫は「あの時間何だったん」と笑えて来た。私に至っては般若を登場させた事を心底後悔した。もっと早くに助けを求めればよかったと。「私がやらなきゃ」この決めつけは、子育て全般に於いても危険な考えだ。
その後もレッスン中しきりに手を振る娘は終始笑顔だった。手の振りすぎでコーチに注意されやしないかと内心ハラハラした。途中別のレーンで練習する兄を大きな声で呼びながら手を振る姿も目撃した。さっきまで怖いとか言いながら泣いてたのはどこのどいつじゃ!まったく…。などと思いながらも、無邪気に笑うまだ体の小さい娘を遠目に見ると、あんな小さな子に「勝手にして」などと言い放った自分がいかに未完成な人間であるかを思い知らされるのだ。
レッスンを終え、更衣室に戻ってきた娘はにっこにこだった。「楽しかった!これからも続けるー!」と言って、いつまでもにこにこしていた。
ところで、着替えさせてくれたあのコーチは一体娘に何を言ったのだろう。
夫も私も知りたくて仕方なかった。娘に聞くと答えはこうだった。
「『かすみちゃーん、お着換えしようね!』って優しく言ってくれたからだよ」
折に触れて、私の頭にふと浮かぶ疑問がある。
「優しさって何だろう」
今日もまた、その答えを探し求めるのだ。
娘の「初日」

