子あっての母

シャワーを浴びて、頭にタオルを巻いて、下着姿で鏡を見る。腰周辺に昔は見なかった膨らみを確認。中年になったんだ、と確信する。すると背後から、我が家では見慣れない葉っぱがゆらゆらと揺れながら近づいてくる。後ろを振り向くと、視界の下で赤いリボンで装飾された鉢を持った娘がいて「おかあさん、いつもありがとう」と目じりを垂らして言った。続けて息子が「いつもありがとう」と照れながら口にし、その奥で夫が「はい、よく言えました」と少し誇らしげだった。下着姿のまま子供たちを抱きしめて「ありがとう」と伝えた。もちろん夫にも。サプライズ成功に喜ぶ子供たちに「お母さんにしてくれてありがとう」という言葉が出たのは自分でも予想していないことだった。準備した言葉ではなく、自然に、心の底からその時湧き出た言葉だ。

待てど暮らせど私たち夫婦の許にやってこなかった息子は、3年経った頃やっとお腹に来てくれた。
「ありがとう」と言ってもらえる母の日となったのも、子供たちがいてくれてこそ。彼らがいて今の私の毎日がある。
もちろん実の母、義理の母への感謝の言葉も忘れてはいけない。と心ではわかっているのに、なんだかんだ時間が過ぎ夜になって義理の母に電話した。しかもお花の到着は母の日翌日だ。あぁなんてダメな嫁なんだ。なんで私はこうなんだ。それでも義母はいやな顔ひとつせずいつもの優しい声で逆に感謝してくれるんだから、尊敬の念が止まない。もう来年の母の日ギフトを予約しておくべきか。その予約すらも忘れてしまいそうになる正真正銘のポンコツなのだ。そんなダメな私でも、二人の母に直接感謝の気持ちを伝えられる今があることにはとても感謝している。
いつか、伝えたくても直接言えなくなる日はやって来る。

母の日はいつも私の母の誕生日と近く、家族で母の日と誕生日をセットで祝うのが通例だ。今回母は、これまで大事に保管していた子供や孫からの手紙を披露した。その中に、私が二十歳の時に母に書いた手紙があった。「57歳のお誕生日おめでとう。これからも元気に過ごしてね」息子がたどたどしく読み上げた。当たり障りのない、まるで定型文のような手紙の中にまだまだこれからも親は近くにいるという何の不安もない私が見えた。その手紙を受け取った母は、57歳だった。まだ50代だった母を思い出してみる。ハツラツとしてふっくらした母。そんな母が今では80歳となり、不安や後ろ向きな言葉を口にすることが増えた。料理にも時間がかかるようになり、手もしわしわになった。いつまでも変わらぬ母だと思っていたけど、知らぬ間に、気づけばもうお婆ちゃんと呼んでも違和感のない姿になっていた。57歳だった母をとても懐かしく思った。
人は必ず平等に歳を取る。私にも、80歳になる日がやって来る。その時、42歳だったお母さんは子供たちの目にどう映っているのだろう。もしあの母の日、ウォーキング後シャワーを浴びる前だったら「42歳のお母さんは臭く湿っていた」そんな思い出になっていたのだろうか。いやだ、そんな思い出はいやだ。下着姿ではあったが、幸いにもシャンプーの匂い漂う母であったことに胸を撫でおろす。

ところで、私が植物を育てられない女だと散々嫌味を言っておきながら、夫はどうして花ではなくガジュマルを選んだのだろうか。
そういえばまだ結婚して間もない頃、寝室の窓際にガジュマルを置いていたな。それで…そのガジュマルはいつどちらに行ったのでしょうか?誰か、盗みましたか?(人のせいにする)
「多幸の樹」そう書かれた二代目ガジュマルだけは、決して枯らしてはいけない。
そんなプレッシャーに今、押しつぶされそうだ。なぜだ、なぜ二代目をよこしたのだ。
まさか、夫は私にプレッシャーを与えるという仕返しを見事にやってのけたのだろうか…あの一件の仕返しを…。

つづく(かもしれない)

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\ 私が書いています /

神奈川県出身。
夫と2人の子供と4人暮らし。
20代の頃スペインに約1年間滞在した経験があり、ピソでの各国からの友人たちとの生活は、今思えばまるで映画の中のような世界でかけがえのない時間となった。しかしあの時必死で身につけたスペイン語はいつの間にか風に吹かれて消えていった。今となってはあの1年が壮大な妄想だったのではないかと思い始めている。信頼と語学力は努力を怠れば一瞬で消え行くのである。
心に残る本は『Jimmy』。もしも人生を悲観する日が来たら再び手に取ろうと決めている。

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